日本 |
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▼ 日本 の解説を表示▼
日本国(にっぽんこく、にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの国であるんや。 おーまかなトコ日本は、東アジアの東方、太平洋の西部にある島国であるんや。領土は、本州、北海道、九州、四国などからなる日本列島を中心に、南に延びる伊豆諸島、小笠原諸島、南西に延びる南西諸島、及び北東に延びる千島列島の一部を含み、全体として弧状列島を形成する。周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。ロシア連邦、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、中華人民共和国、中華民国(台湾)、フィリピン共和国と海を挟んで接しておる。 工業国として、国内総生産 (GDP)で世界第2位(USドル時価換算)に位置する経済大国であるんや。に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、主要国首脳会議にはの第1回(当時は先進国首脳会議)から参加するなど、世界経済へ強い影響力を持つ。 周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家であるんや。内海を含む領海、排他的経済水域などの水域面積は約447万km²なんやし、これは国土面積の11.7倍にあたる。 国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な画期はへん。日本列島には約10万年前へんし約3万年前から人が住み始めたちうわけや。約1万2千年前の前後にアジア大陸と分離すると、東アジア文化圏の影響下にありつつも、独自の文化・社会・政治体制を築いていったちうわけや。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期であるんや。「日本」は東アジアの中でも独特な国際的地位を保持し続け、13世紀の元寇や16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出などの事態にも対応して独立を維持したちうわけや。明治維新によって日本は近代国家として著しい発展を見せ、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となりよったちうわけや。その後の大正デモクラシーを経て、政党政治と普通選挙を実現したが、次第に軍部が台頭し始め、急速な拡大を志向するも大東亜戦争(太平洋戦争)で敗北し、連合国(主に米国)の占領下に置かれることとなりよった(に国家の主権を回復)。戦後は戦禍からの復興と共に高度経済成長を遂げ、世界有数の経済大国となりよったちうわけや。(→日本の歴史) 古来から日本で暮らしてきた人々は日本民族(大和民族)と呼ばれ、現在も日本に住む人間のほとんどを占める。それ以外に外国人が約130万人、帰化人が数十万以上在住しておる。日本民族は狭義の日本民族である和人と琉球人、アイヌやウィルタなどの少数民族に分類する考え方があるんや。全土で日本語が話されており、識字率は極めて高い。 政治は、第二次世界大戦後のに施行された日本国憲法を最高法規として行われる。統治機構は、立法権を国会、司法権を裁判所、行政権を内閣に分配する三権分立制を採る。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を憲法の三大原理とし、その根本にある個人の尊重(個人の尊厳)を基調とする。また、憲法に元首の定めはへんものの、世襲である天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)として、元首に準じた地位に置く。 天皇は、初代から第125代の今上天皇(現在の天皇明仁)に至るまで、すべて男系で世襲されてきた(万世一系)。直接統治を行う事は稀で、豪族や貴族、幕府や政府といった世俗の権力が代わって統治する事が多かったちうわけや。天皇は主として、その政治権力の担い手の正当性を根拠づけ、権威を表象する役割を果たしたちうわけや。明治以降は立憲君主制の形をとり、第二次大戦後から現在は日本国憲法の定めるトコ により「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられておる。 イギリス・BBCワールドサービスが2005年より毎年公表しておる、10前後の特定の国および地域が世界に与えておる影響の印象を尋ねる世界規模の世論調査では、日本が質問対象国となりよった2006〜2008年の各年いずれも、「好影響を与えておる思う」との回答率がもっとも高い国の一つとなりよったちうわけや。日本は、国際的に非常に高い評価を得ておる。 国号国号には「日本国」が通常用いられはる。日が昇る「ひのもと」の地であることに由来しておると考えられておる。 根本法令である憲法の表題には、「日本国憲法」「大日本帝国憲法」のように「日本」国号が明示されてはおるが、国号を日本国と直接かつ明確に規定した法令はへん。 国号の成立「日本」ちう国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられておる。天武天皇治世において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されておる。『日本書紀』大化元年七月条に高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは720年(養老4年)完成の『日本書紀』が、大宝律令公式令以後、既に用いられとった表記法で記述したもさかい、実際に大化元年頃には未成立やったと考えられておる。 7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期やったちうわけや。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んや。この取り組みを大きく推進したんが天武天皇やったちうわけや。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられておるが、「日本」国号の成立を天皇号の成立といっぺん期と見るのが、前者説である(例えば吉田孝は飛鳥浄御原令(689年)にて「日本」国号と天皇号が定められはったと推測しておる)。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至ったちうわけや。そこで、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説である(例えば神野志隆光は具体的に、大宝令公式令詔書式において「日本」国号が定められはったとしておる)。 8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されておる。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」ちう新国号が唐(大周)へ伝えられはったことが確認できる。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来であるんや」とし、国号の変更理由についても、「雅やへん倭国の名を嫌ったさかいだ」としておる。国号変更の事情について、旧唐書が「小国やった日本が倭国を併合した」とするのに対し、新唐書は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としとり、混乱が見られはる。これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたと現在では考えられておる。 旧唐書・新唐書が語るように、「日本」国号は日本を東方に見る国、すなわち中国大陸の国からの視点により生まれたちうわけや。平安時代初期に成立した『弘仁わて 記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀わて 記』諸本においても、中国の視点により名付けられはったとする説が採られておる。神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、やからに日本の国号が唐に受け容れられはったんとちゃうかと考察しておる。また、『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出処」の天子と自称したとあり、このときの「日出ずる処」ちう語句が「日本」国号の淵源となりよったとする主張もあるが、仏典『大智度論』に日出処は東方の別表現である旨の記述があり、現在「日出ずる処」は単に文飾に過ぎへんし、「日本」国号の成立とは無関係であると考えられておる。 読み日本政府は正式な読み方を明確に定めておらへん。「にっぽん」あるいは「にほん」と読まれる。 「日本」の国号が成立するよりどエライ昔、大陸では日本列島を「倭」または「倭国」と呼称しとったが、日本列島では3世紀から4世紀頃「やまと」の政治勢力が中心となって統一が進むと(ヤマト王権)、大陸からは「倭」=「ヤマト王権」となり、日本列島側でも漢字の使用が始まると「やまと」には「倭」の字を当てて表記するようになりよったちうわけや。7世紀頃に「やまと」の表記は「倭」から「日本」に変更されたが、『日本書紀』においても『古事記』においても基本的に「日本」は「やまと」と訓読される。日本へ国号変更された後も「やまと」の呼称は残り、日本は「やまと」と読まれ続けたちうわけや。 いっぺんに、「日本」国号は7世紀後半の国際関係から生じたものであるため、当時の国際的な読みである音読、すなわち「ニッポン」(呉音)または「ジッポン」(漢音)と読まれたやろうとも推測されておる。「ニホン」の読みがいつ始まったかは定かやへん。平安時代の仮名表記では促音・濁音の区別がへんかったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記されたちうわけや。「ニホン」の読みはここから起こったと考えられておる。同じ平安時代には「ひのもと」の読みも新たに起こっておる。 室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませておる。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』『日本語小文典』等には「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合では「ニッポン」が使われ、日常の場面では「ニホン」が使われとったちうわけや。 Xipangu、Japan、Japon 等、ヨーロッパ語圏での日本を表す語は「ジッポン」に由来すると考えられておるが、「ジッポン」音は現在伝わっておらへん。このことから小池清治は、中世日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用するのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されとったのなんやし、日常的には「ニッポン」「ニホン」が用いられとったんとちゃうかと推測しておる。 その後、明治期に入っても「ニッポン」「ニホン」の統一がなされへん状況の中、に文部省臨時国語調査会が、国号呼称を「にっぽん」に統一し、外国語表記もJapanを廃してNipponを使用すること、とする案を示したちうわけや。せやけど ながら、完全な統一は果たされへんかったちうわけや。現在、通商や交流の点でアチラ と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれておる。「NIHON」と表記する例はあんまり多へん。 別称・外国語呼称日本の別称は古くさかい多様であるんや。 自らを呼んやものには、まず「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(『古事記』)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(『日本書紀』神代)等があり、これらに共通する「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われておる。「大倭豊秋津島」(『古事記』)、「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)の「秋津島(洲)」は(とんぼの島)の意であるが、孝安天皇の都の名(室秋津島宮)に由来するとされておる。同じく「師木島」(『古事記』)、「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)等の「しきしま」も、欽明天皇の都(磯城島金刺宮)に由来するとされる。「大八洲」(『養老令』)、「大八洲国」(『日本書紀』神代)は、多くの島からなる島国の美称と解されておる。このほか、「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)、「浦安国」「藤根国」(『詞林采葉抄』)、「日出処」、「大和国」、「和州」等多くの別称があったちうわけや。 中国からの呼び名には「倭」「倭国」「倭奴国」「倭人国」のほか、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」 、「蓬莱」をはじめとして、「東海姫氏国」、「東海女国」、「女子国」「君子国」、「若木国」、「日域」、「日東」、「日下」、「烏卯国」、「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあったちうわけや。 「皇朝」はもともとは中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」または「すめらみかど」等と訓読したちうわけや。「神国」、「皇国」、「神州」、「天朝」、「天子国」などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであちう、国名・国号ちうようなものではおまへん。「本朝」は「我が国」ちうような意味であってこれも国名ではおまへん。江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中国」などと書くことがあったがこれも国名ではおまへん。「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字をつけて天子の王朝であることを示す中国の習慣からきておる(「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。「大元・大明・大清」は例外でこの3例のみは二文字で正式国名)。せやけど 、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係へん古称の一つであるんや。「帝国」は、もとは「神国、皇国、神州」と同様やったが、近代以後は"empire"の訳語として使われる。()。明治時代から第二次世界大戦後までの国号は、日本、日本國、日本帝國、大日本國、大日本帝國なども表記上は用いられはったが、大日本帝国憲法成立後の正式国号は「大日本帝國」であるんや。戦後は「日本」「日本国」であるんや。。 公式の英語表記は、(ジャパン)。略記としてはが用いられはる。(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるさかい、使用には注意が必要である(但しこの他の言語ではこの限りではおまへん)。また、きょうび の外国語表記では(ニッポン)が用いられはることが多い。具体的にはUPU等によるローマ字表記(以降)、日本郵政公社の切手や日本銀行券などで表記を用いておる。なおの先頭三文字で略した(ニップ)は、よりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるさかい、使用すなあかんではおまへん。この場合の略称はとなる。 世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン()、チャパーン()、ヤーパン()、ジャポン()、ハポン()、ジャッポーネ()、ヤポニヤ()、ヤポーニヤ()、イープン()など、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音したもの(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) あるいはジャパング (Japangu) を語源とするとするのが定説であるんや。中国や韓国などの漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン()、イルボン()、ニャッバーン()等、そのまま「日本」を自国の発音で読むちうやり方をしておる。 なお、「日出ずる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示すものとして使用されておる。例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 歴史概略日本の歴史は通常、日本列島における歴史と同一視されておるが、国号節で見たように、厳密には日本の成立は西暦700年前後の出来事なんやし、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」を明確に区別してとらえなあかんとする考えも出されておる。本節では国家としての日本がたどった歴史とその領域の変遷を中心に見ていくこととする。日本の歴史の詳細については日本の歴史および各時代の項目を参照されたい。 日本の歴史の時代区分は、考古学上のものと歴史学上のものがあるんや。考古学上の時代区分は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代、とするのが一般的であるんや。一方、歴史学上の時代区分としては、古代(飛鳥時代およびそれよりどエライ昔・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治・大正・昭和およびそれ以降)の四分法が通説であるんや。(→日本の歴史#時代区分節) 日本列島の人類の歴史は、約10万年前よりどエライ昔へんし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島はアジア大陸と陸続きなんやし、西方の華北・北方のシベリアとの文化交流も見られはったちうわけや。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、日本列島は大陸から分離したちうわけや。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあったが、東アジアの最東方に所在する島国、ちう地理的条件によちう、日本は他の東アジア地域とは異質な要素を持つ文化・社会を発達させていったちうわけや。 紀元前8世紀頃以降、大陸から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後には各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現したちうわけや。この連合的政治組織は3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展すると、7世紀後半には中国の法体系・社会制度を急速に摂取して8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見るに至ったちうわけや。「日本」国号と天皇号は、この古代国家の建設・成立と軌を一にして登場したと考えられておる。当時の日本は隋との通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せており、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向しとったちうわけや。他の東アジア諸国とは異質な外交姿勢なんやし、この外交姿勢は、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれていったちうわけや。 成立当時の「日本」の支配地域は、日本列島全域に及ぶものではなく、九州南部以南および東北中部以北はまだ「日本」の領域外やったちうわけや。九州南部は8世紀末に「日本」へ組み込まれたが(→隼人)、東北地方の抵抗は強く全域が「日本」の領域となりよったのは鎌倉時代に入ってからである(→蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷征服活動が活発化するとともに、新羅遠征が計画されるなど、帝国としての対外志向が強まった時期やけど 、10世紀に入るとけぇへんな 動きは沈静化したちうわけや。 11世紀後半から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んや中世国家へと移行した(→荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め、これは社会に「日本」「日本人」の意識が生まれたことの現われと考えられておる。特に13世紀後半の元寇(蒙古襲来)は、「日本」「日本人」意識が社会各層に広く浸透する契機となり、あわせて「日本は神国」観念を定着させたちうわけや。網野善彦は、このように「日本」「日本人」意識は、外国のみやったらず神仏なども含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしておる。室町時代には「日本」の領域が北海道南部まで及んや。 14世紀 - 15世紀の時期には、社会の中世的分権化が一層進展していったが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んでいったちうわけや。この地域国家形成の動きは、中世社会の再統合へとつながり、16世紀末には日本の統一政権が樹立されるに至り、時代は近世へと移行したちうわけや。「日本」の領域はこの時期にも変動しておる。16世紀末に蠣崎氏が北海道南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得たちうわけや。蝦夷地は「日本」の領域とされることもあれば、領域外とされることもあるんや、いわば境界ちうべき地域やったが、18世紀にシャクシャインの乱やロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌおよびロシアへの他者意識が「日本」「日本人」観となって庶民層にまで定着し、「日本」の領域も蝦夷が島(北海道)以南と意識されるようになりよったちうわけや。南方に目を向けると、「日本」の西の境界は、中世を通じて鬼界島・硫黄島までと意識されとったちうわけや。17世紀初めに薩摩島津氏が沖縄の琉球王国を侵攻し、支配下におさめたが、その後も琉球王国は日本・中国への両属を続けたちうわけや。 19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとして「日本」「日本人」意識がまんねんまんねん強まり、現代の「日本」「日本人」意識とほぼ一致するまでに至ったちうわけや。アジア各国が欧米列強の植民地とされていく中で「日本」が独立の歴史を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となりよったと考えられておる。 明治維新を迎えた日本は、近代的な国民国家の建設を急速に進めていったちうわけや。いっぺんに近隣国と国境確定を行い、に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(→樺太・千島交換条約)、沖縄は琉球処分を通じて実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代的国家としての日本国領域が確定したちうわけや。 自由民権運動を経て日本はに、内閣制度を確立して、には大日本帝国憲法を制定し、に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置したちうわけや。こうして日本は、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となりよったちうわけや。 19世紀後半 - 20世紀初頭当時の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られはった日本は、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めたちうわけや。両戦争を通じて日本は、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土におさめ、関東州租借権を獲得したちうわけや。その後日本は、に韓国併合を、に国際連盟からの委任を受けて南洋群島の領有権・統治権を獲得したちうわけや。また、大正時代には大正デモクラシーが起こり、政党政治と普通選挙が実現したちうわけや。 1930年代には中国東北部への進出を強め、満州国を傀儡化して一定の支配権を得るにいたり、国内では軍部が台頭したちうわけや。けぇへんな 対外志向は、特にアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国との権益と真っ向から衝突し、最終的にはの大東亜戦争(太平洋戦争)での敗北によって破局に至ったちうわけや。 敗北した日本は、連合国軍の占領体制下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを事実上失ったちうわけや。日本が他国の支配を受けるのは史上初の経験やったちうわけや。連合国占領下において国制改革が進められ、憲法改正を行い、日本国憲法を制定したちうわけや。のサンフランシスコ講和条約により占領が解除されると、その後の日本は1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げた(→高度経済成長#日本の高度経済成長)。またには小笠原諸島、には沖縄の施政権がそれぞれアメリカ合衆国から返還された(→沖縄返還)。 1970年代後半以降の日本は、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国では成長モデルとして目標にされてきたちうわけや。21世紀に至り、日本は社会の超高齢化とそれに伴う人口減少、経済の世界規模化への対応などの課題に直面しておる。 建国をめぐる議論『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、戦前はこれが日本建国の画期と考えられとったちうわけや。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、紀元前660年を元年とする紀年法「皇紀」が1月1日から使用されたちうわけや。せやけど 、歴史学の立場からすると、神武天皇即位は歴史的事実とはされておらへんし、神話の反映と見られておる。戦後になり皇国主義的な歴史観が排除されると、皇紀が使用されることはほとんどなくなりよったちうわけや。 日本の建国時期として、このほか「日本」国号が定められはった時期(飛鳥浄御原令または大宝律令の成立時期)、大政奉還がなされ近代国家建設が始まった明治維新の時期、ポツダム宣言を受諾して新たな日本建設が始まった時期、サンフランシスコ講和条約を結び主権を回復した時期、などが挙げられはることがあるが、国家としての日本は長い歴史的経緯を経て形成されており、明確な建国の画期を見出すことは困難なんやし、建国をめぐる議論は主観的なものとなりがちであるんや。 公的には前述の神武天皇即位紀元をもとにして、、(昭和41年政令第376号)によって2月11日が「建国記念の日」に定められはったちうわけや。(→建国記念の日) 地理thumb 日本は、アジア(ユーラシア大陸)の東方、太平洋の西部にある島国なんやし、4つの弧状列島(日本列島、千島列島、琉球諸島、伊豆・小笠原諸島)から成り立っておる。台湾の東方にある与那国島から、樺太の南方にある北海道までを領土としておる。 北にオホーツク海、北西に日本海、南西に東シナ海、南にフィリピン海、東に太平洋と周囲をすべて海に囲まれ、日本海を挟んで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア連邦、東シナ海を挟んで中華人民共和国、中華民国(台湾)、フィリピン海を挟んでフィリピン共和国と国境を接する。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸があるんや。 全体的に弓形状になっており、全6,852島からなる国土面積は約37.8万km²(北方四島以外の千島列島、南樺太を除く)。領土の約70%が山なんやし、森林率は約67%であるんや。周囲はすべて海なんやし、地上の国境線は実効支配領域においては無い。 本州と四国の間の海は特に瀬戸内海と呼ばれる。沖合を暖流の黒潮、対馬海流、寒流の親潮、リマン海流が流れる。 現在、ロシアとの間に北方領土(南千島列島を主とする。北千島列島・南樺太も含む場合があるんや)、大韓民国との間に竹島の領有問題があるんや。その他、近年になって尖閣諸島近海に地下資源が発見されて以来、中国が尖閣諸島の領有権を主張しとり、台湾も中国に対抗して領有権を主張しておるが、尖閣諸島発見以来日本が占有しておる。北方領土、竹島は現在不法に占拠されたままであるんや。 日本列島の地形区分は地質構造を基準にして南西日本と東北日本に大別される。その境界線は本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線であるんや。 列島付近ではユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北米プレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・火山帯・地震帯と呼ばれる帯の一環をなしておる。そのため地震が頻発し、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本周辺に集中すると言われておる。そやから、震度1クラスや2クラスくらいの地震は日本のどこぞで毎日のように起きておる。また、火山活動が活発やった事から、火山性土壌が多く、これが日本列島の地味を豊かにした面もあるんや。また温泉が多い事も火山の恵みと言える。 日本の範囲
気候大半の地域は温帯に属する。南方の諸島は亜熱帯、北方は亜寒帯的気候を示す。海洋性気候やけど 、モンスーンの影響を受け、四季等寒暖の差は大きい。 冬季はシベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海では暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため日本海側を中心に国土の約52%が豪雪地域なんやし、世界でも有数の豪雪地帯となる。逆に太平洋側では空気が乾燥した晴天の日が多い。 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。また、台風も多い。せやけど 、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強なると低温となり、しばしば農業に悪影響を与える。 また日本は、比較的降水量の多い地域でもあるんや。主な要因は日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmとされる。 地域・広域行政区画日本は都道府県(1都1道2府43県)ちう広域行政区画から構成される。せやけど 、地域区分(地方区分)には揺れが見られはる。また、一部の市などは行政上は別途政令指定都市、中核市、特例市、特別区に定められておるほか、各都道府県を、さらに細かく分けた市町村ちう行政単位や、町村をいくつかまとめた郡があるんや。北海道には独立出先機関として14の支庁が置かれておる(全国市町村一覧参照)。 以下に、日本の地域(地方)と47都道府県を示す。地域(地方)は一般的なものを示したちうわけや。太字は都道府県名で、左の数字は下の図の数字と対応しておる。 北海道
本州
四国九州沖縄
首都thumb 日本の首都は事実上東京なんやし、世界最大の都市圏を有する。東京都特別区の人口は約860万人で、東京都を中心とする神奈川県、千葉県、埼玉県などを含む首都圏人口は約3300万人。東京には、皇居のほか、国会議事堂、内閣、最高裁判所、各省庁、各国大使館、大企業の本社、日本銀行や主要銀行、証券会社、百貨店、新聞社や放送局があり、政治・経済の中心地であるんや。また都心部への機関、人口の集中が限界に達し、ターミナル駅を中心として新宿、渋谷、池袋が副都心としてごっつう発展しておる。さらに副都心に準ずる地域で交通の要衝なんやし、多様な機能を備えた複合拠点として品川、秋葉原の再開発が進められ、また東京近郊の新都心(新副都心)として、横浜みなとみらい21(横浜)、幕張新都心(千葉)、さいたま新都心(さいたま)の3箇所があるんや。せやけど 、汐留地区は複合都市とされておる。 主要都市thumb thumb
主要都市圏
人口
年齢構成近年、急速な少子化、高齢化が進行しつつあるんや。それに加えて、戦後のベビーブームで誕生した年齢層で人口の多い団塊の世代が相次いで定年を迎えるため(2007年問題と呼ばれる)、被扶養人口の爆発的増加が危惧されておる。 地域別分布日本の各地方の人口は次の通りであるんや。
人口の上位3都府県は次のとおり。
その他の日本の政令指定都市の人口と人口密度は次のとおり。
一方で農漁村では、若い働き手が都市部へ移住してまうため、過疎化、高齢化が進行しておる。 政治日本の政治は、日本国憲法に基づいて運営されておる。 日本国憲法11月3日公布、5月3日施行。 日本国憲法は、憲法第13条個人の尊厳(個人の尊重)をその根本に置き、下記三つを三大原理としておる。 これらの理念を実現するため、統治機構は権力分立(三権分立)に基づいて配され、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に属する。 象徴天皇制天皇は、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と定められ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基くで」ものとされる(同条)。天皇は、憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有せん(憲法4条1項)。せやけど 、国事行為のほか、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。 日本内外にて天皇は元首として遇されておる。さらに、日本は立憲君主制であるちうのが、日本の公式見解であるんや。 国の政治国の政治は、国会と内閣を中心に行われる。国会(特に与党)と内閣は、分立しながら協働して国政を行う議院内閣制を採る。 国会は、衆議院と参議院の二院からなる二院制(両院制)の議会であるんや。国会は「国権の最高機関」なんやし、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員(衆議院議員、参議院議員)によって組織される。せやけど 、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院は参議院より強い権限が与えられておる(衆議院の優越)。これは、衆議院には解散があり、任期も短い(衆議院は4年、参議院は6年)ため、衆議院の方がより民意を反映しておるためと説明される。 内閣は、首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣からなる合議制の機関であるんや。内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員、参議院議員のいずれでもよい)の中から国会の議決によって指名され、天皇に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければやったらへん。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民やへんとあかん。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。また、内閣は衆議院の解散権を持つ。 国会で審議され、可決される法律案の大多数は、内閣が提出する政府提出法案(内閣提出法律案、閣法)なんやし、国会議員が発議する法案は少へん。政府提出法案は、内閣の下に置かれる行政機関(省庁)が、国会の多数を占める与党との調整を経て作成する。行政機関の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力は、どエライ 強い。国会議員の給源は、キャリア官僚、弁護士、地方議員などが多く、なんちうか、ようみなはんいわはるとこの 世襲議員と並ぶ。 裁判所は、司法権のほかに法令審査権(違憲立法審査権)を持つ。これは、法令や行政行為などの合憲性を審査して、最終的に判断する権限であるんや。もっとも、裁判所はなんちうか、ようみなはんいわはるとこの 司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えることが多い。 戦後政治の流れ国会では、に結党された自由民主党(自民党)が、一貫して最多の議席を占める。同年に結党された日本社会党(社会党)とともに、55年体制と呼ばれる政治体制を形作ったちうわけや。この体制は、自民党が与党として党の総裁を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組み、社会党は野党として自民党と対立・協調しながら国政を運営するものであるんや。新自由クラブと連立政権を組んやからまでの一時期を除き、までの約40年間は自民党単独政権が続いたちうわけや。 に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産の連立政権である細川内閣が成立したことで、55年体制は崩壊し、自民党は政権を離れたちうわけや。翌6月に、自民党・社会党・新党さきがけの連立政権(自社さ連立)である村山内閣が成立したことで自民党は政権に復帰。次の橋本内閣以後、小渕内閣では自由党との連立(自自連立)、同じく小渕内閣で公明党を加えた連立(自自公連立)、森内閣・小泉内閣で自由党が抜けて自由党の一部からなる保守党(保守新党)が残った連立(自公保連立、自公保新連立)、保守新党が解党した連立(自公連立)など、常に連立政権を組むことで、自民党の総裁が内閣総理大臣となっておる。 3月現在、内閣総理大臣は自民党総裁の福田康夫で、自公連立政権である福田康夫内閣が組まれておる。 地方制度日本国憲法は、地方自治の制度を定める。地方自治は、地方公共団体が担う。地方公共団体は、基礎的地方公共団体である市町村と広域的地方公共団体である都道府県の二段階の体制をとる。 基礎的地方公共団体としての市町村は、市が782、町が827、村が195の合計1804あり、このほか東京都の都心部に23の特別区がある(4月1日現在)。市町村には、執行機関である市町村長と、議決機関である市町村議会(または町村総会)が置かれる。市町村長と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。市町村は、その財産を管理し、その地域の事務を取り扱い、行政を執行する。また、市町村は、法律の範囲内において条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、一部の権限が都道府県から委譲される。 広域的地方公共団体としての都道府県は、都が1、道が1、府が2、県が43の合計47あるんや。都道府県には執行機関である都道府県知事と、議決機関である都道府県議会が置かれる。都道府県知事と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。都道府県は、市町村を包括し、より広域的な行政を行う。都道府県も、法律の範囲内において条例を定めることができる。 現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消してより広域的な道州を置く道州制の導入が検討されておる(日本の道州制論議)。 法律日本では、日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例などの各種法令が定められはる。裁判所は、すべての法令が憲法に適合するか否か判断する法令審査権(違憲立法審査権)を持ち、最高裁判所がその終審裁判所であるんや。 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの基本原則と、統治機構を定める成文憲法なんやし、硬性憲法に分類される。日本国憲法は、に公布され、翌に施行されて以来、一度も改正されておらへん。長らく、主に戦争の放棄と戦力の不保持を定めた9条を巡ちう、憲法改正論議が行われておる。 憲法と、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の5つの法律を総称して六法ちう。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法律学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。民法は民事一般法なんやし、刑法は刑事一般法であるんや。商法は商事一般法であるものの、企業に関する定めの多くは会社法に分けられはったちうわけや。民事訴訟法と刑事訴訟法は、それぞれ民事訴訟と刑事訴訟の手続法であるんや。 日本の刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料と没収の刑罰が定められておる。死刑制度のあり方を巡っては、日本国憲法制定当時から議論があり、廃止派は国会や社会で運動を続けてきたが、国会議員と国民の中で多数派を形成できておらへん。日本における死刑の判決数は以後は1970年代 - の10件未満と比較して10 - 20件台に増加したちうわけや。執行数は度に以後では最多の9件に増加し、度は6月時点で10件なんやし、先進国で唯一、死刑執行数が増大しておる(執行数の増加が今後も続くかは法務大臣による差が大きいので未定であるんや)。判決数・執行数・死刑囚はアメリカより少へん。 治安日本は法治国家であり警察権は法に従い行使される。日本の治安維持制度は内閣府の元に設置される国家公安委員会・警察庁と各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造になっておる。各委員会は予算などの決定や大綱などの方針策定なんやし、実務は警察庁・警察本部が執り行っておる。また、警察庁自体は指揮監督を主としとり、実際の捜査などの業務は警察本部やその下部組織(警察署など)が運営しておる。日本固有の制度として交番制度があり、地域治安の確保の役割を担っておる。警察組織とは別に沿岸警備隊・国境警備隊としての業務を目的に海上保安庁が国土交通省の外局に設置されておる。 日本は銃刀法により銃・刀剣などの武器の所持を厳しく制限しておる。それに加え、協調性を重視する国民性などの影響もあり、他国に比べ比較的治安がよいとされる。国連薬物犯罪事務所(UNODC)の1990-2004年の調査によると、犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告しておる国の中で、日本は殺人、誘拐、強姦、強盗、傷害、放火などの暴力犯罪の発生率は各罪種とも最少グループ(低い順に10位以内)であるんや。 日本では前記の暴力犯罪が増加傾向であるとの認識を報道機関や出版社や個人が表明する事例があるが、それは誤認であるか、その認識や主張に都合よいデータだけを意図的に選んや情報であるんや。法務省と警察庁の犯罪統計によると、 - の期間で、前記の暴力犯罪の発生件数と人口10万人あたりの発生率の推移を見ると、発生率が最も高かった年度の(発生件数と)発生率は、殺人はの(3,081)3.49、誘拐はの(531)0.63、強姦はの(6,857)7.06、強盗はの(10,854)13.57、傷害はの(73,985)80.63、放火はの(1,905)2.26であるんや。発生率が最も低かった年度の(発生件数と)発生率は、殺人はの(1,199)0.94、誘拐はの(76)0.06、強姦はの(1,483)1.18、強盗はの(1,586)1.29、傷害はの(17,482)13.29、放火はの(1,348)1.09であるんや。は、殺人は(1,199)0.94、誘拐は(207)0.16、強姦は(1,766)1.38、強盗は(4,567)3.58、傷害は(30,986)24.27、放火は(1,519)1.19である{{Cite web|last=法務省|title=犯罪白書の<(和暦|2006)>度版、<(和暦|2005)>度版、<(和暦|2004}年度版 資料1-2 刑法犯の主要罪名別認知件数、1997年版 資料I-1 刑法犯の認知件数|url=http://hakusyo1.moj.go.jp/|accessdate=5月20日|accessyear=2008年)><(Cite web|last=警察庁|title=統計>平成19年の犯罪情勢>図表4-1-(1) 重要犯罪の認知・検挙状況の推移|url=http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm|accessdate=6月17日|accessyear=2008年)><(Cite web|last=総務省|title=人口統計>第2章全表(2-1~2-34)>2-1 人口の推移、2-2 将来推計人口|url=http://www.stat.go.jp/data/nenkan/02.htm|accessdate=5月20日|accessyear=2008年)>。日本の前記の暴力犯罪の発生率は、前記の最も高かった年度とその前後の年度が最高期なんやし、当時から近年までの推移は、単年度や短期的な増減はあっても長期的には減少傾向なんやし、近年は最高年と比較すると著しく減ちびっと ておる。 安全保障<(Main|日本の軍事)> 日本国の安全保障は自衛隊と | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||